私個人のいわきの歴史の関心としまして、
1)勿来の関ははたしてあったのだろうか。
2)菊多の関はどこにあったのだろうか。
3)菊田郡役所はどこにあったのだろうか。
4)石城国には10の駅家があったらしいがどこにあったのだろうということに関心を持って、
歴史を学んでいます。
昨年、馬目順一先生の指導で、「菊多浪漫街道を往く」というテーマで、
いわき市の南部方面を回ることができました。
一昨年は、猪狩先生の指導で「根岸官衛遺跡群の周辺」を勉強しましたが、
様々な「古墳時代」といわれる時代を経て、「遣隋使」や「遣唐使」の派遣などによって「中国の文明」の高さに学んで
日本の律令制度ができ、政治の統一を計るべき「大化の改新」や「大宝律令」・・・・710年などを
経て、
天皇中心の中央集権的な政治の仕組みを整え「唐の長安」に学んで「奈良」に都を作り(710年)
それと並行して政治の不安や矛盾を「仏教」によって救おうとして、「仏教」を保護し、
「東大寺」をはじめとして国ごとに「国分寺」を建てて、地方をおさめる時代に、
それに沿った形で、
いわき地方のいわき南部における政治の中心の遺跡・・・・・菊田郡の郡役所跡などを勉強しました。
①菊多の関跡
上記の写真が跡地と推定されるところですが、、まだ発掘されていないので、関跡かどうかは確定していないそうです。
しかし、こうしてまわってみますと、浪漫を感じますね。(現在の勿来町白米か。)
勿来の関が歴史上なかったことは残念ですが・・・・(文学上や観光のほうで残す必要はあるでしょう。)
②菊多郡衛(郡遺跡)・・・概要は「いわきの遺跡めぐり」P106参照
菊多郡の官衛関連施設として認められています。
7C後半で本部は多賀城で国司が中央(国)より派遣され、その下に菊多郡などがあり、その郡役所
跡と考えられています。
当時、税金は「米」で、その郡家の正倉も見つかっています。
このような律令国家時代のいわき南部の遺跡群跡を考えてみますと、
「菊多郡衛遺跡と菊多の関跡」は古代律令国家の地方支配体制を具体的に示す遺跡と考えられますので、
今後、いわき市が発展していくための拠点としての貴重な文化遺産と考えられますので、発掘を進めて
復元、整備して、古代の浪漫として散歩コースとしても考えられ、観光としましても復興してもよいのではないでしょうか。
※「いわきの遺跡めぐり」・・・考古学への誘い96遺跡
社団法人 いわき観光物産協会 800円
は、いわきの遺跡を調べるのに参考になります。
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