いわき地域学會市民講座第239回に参加しました。(いわき市文化センターで)
「本多忠籌(ただかつ)と寛政の改革」
講師は渡辺文久さんでした。
この題を見た時、今、読んでいる「耳袋」・・・根岸鎮衛(やすのり)
今、岩波文庫で絶版中。(いわき市図書館で読めます。)・・・知人が「中」を寄付したため。
にも絡んでいましたので、理解がしやすかったですね。・・・又、ネットで読めます。
初めになぜ、本多忠籌(1739~1812)なのか。
泉藩主として、また、寛政の改革にも参与した名君として知られているが、
業績としては知られていないのでそれを述べたいと。
1.田沼時代と天明の飢饉
田沼時代(宝暦~天明期)
①重商主義的政策・・・経済至上主義(小泉改革のようなもの)
- 株仲間の公認による営業税の徴収
- 座、会所による専売制の整備
- 南鐐二朱銀等の鋳造による経済活性化
- 長崎貿易の振興
- 蝦夷地(北海道)開拓政策
②その結果・・・景気は良くなったが農村は病弊した。
農民が江戸に行ってしまう。(今の状況と似てませんか。)
- 側用人政治に対する批判や賄賂の横行
- 商品経済の進展による農村内の格差拡大。
- 貧農層の江戸への流入。
- 江戸と地方の格差、農村人口の減少と江戸の「其日の者」の増大。
- 文芸、蘭学、心学等諸学問の勃興・・・多彩な才能の人々の登場(平賀源内、杉田玄白など)
③田沼時代も、天明3年(1783年)の浅間山噴火、天明の飢饉による農村の荒廃、
米価高騰による全国規模の一揆、打ちこわしの激発、天明6年(1786)10代将軍家治の死去などにより田沼は老中職を辞任。
2.寛政の改革と本多忠籌
①江戸打ちこわしと寛政の改革
天明7年8月、天明の飢饉による米価高騰による打ちこわしで、約千件の豪商が打ちこわされ、
江戸が無政府になり田沼派が失脚し、松平定信による寛政の改革始まる。
②寛政の改革における忠籌は、NO2として、定信と協力して改革を進めた。
天明の飢饉による農村の荒廃と一揆対策。
対外的には、ロシアのラックスマン来航などの幕藩体制の危機に対応する多方面の改革を進めた。
都市政策として
- 石川島に人足寄場を設置(寛政2年、1790)・・・「鬼平」こと長谷川平蔵の提案による。最近NHKで放送していましたね。人足寄場と長谷川平蔵についてを。
- 七分金積立と江戸町会所・・・社会保障政策。
- 物価の上昇と地代店賃の関連を指摘した意見書を提出・・・物価の抑制と社会救済策を結合。
農村政策として
- 囲米政策(かこいまい)・・・郷蔵に穀物を保管させた。
- 農村再建の為の公金貸付政策。
- 塙代官寺西重次郎封元を代表とする名代官達の登用。
- 蝦夷地対策に消極的な定信・・・積極的な政策を主張。
- 海防政策にも積極的。
- 寛政3年(1791)の盗妖(とうよう)騒動において、老中中、ただ一人、定信の意見に具体案を提示しつつ反対する。
③定信辞職後の忠籌
- 寛政5年(1793)松平定信、老中辞職・・・改革はその後20年くらい続く。・・・忠籌ら「寛政の遺老」らの集団指導により。
- 寛政6年(1794)北条玄養に、泉領内に心学を講じらせる。
まとめ
本多忠籌は、泉藩主として、財政再建と天明の飢餓の難題に取り組み、
寛政の改革においても、
老中格で、政権のNO2として、重要政策に参加し、
寛政の改革後も政権の首脳として活躍したと。
私達が、地元に、こうした事実があった事が、知られていないことが残念ですね。
今日は本当に勉強になりました。
渡辺さんありがとうございました。
今後も、こうした「いわきと中央の人達」の話を紹介してください。
「参考文献」もいろいろ紹介されましたが省きます。
「史料」
- いわき市史第9巻
- いわき史料集成第4冊
- 後見草
- 天明事績
- 字下人言・修行録
- よしの冊子
- 増訂武江年表
- 江戸町触集成
- 御触書天保集成
- 東京市史稿
- 東京市史稿などを挙げられており、どれを見てもおもしろそうですね。
私達も、資料を読んでみたい気がしました。
3 件のコメント:
きれいなお花ですね。いろいろなお花が香りを放つ春です。 とり
http://iwaki.chiikigaku.com/
先日は市民講座へのご参加ありがとうございました。
地域学会のHPでも、イノシシさんのBLOGのRSSを読みに行かせています。
4月26日の巡検にも是非ご参加ください。
masuter bさんコメントありがとうございました。
昨年より、時間の許す限り、市民講座に参加しています。
「江戸時代」は、世界史的にも270年続いた珍しい社会ですし、
また、「江戸の町」の「循環社会」も世界史的なものでしょう。
今後、市民講座でも取り上げてほしいですね。
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