以下3枚、クリックして大きくして見てください。
馬目先生のレジメです。
並びに「いわきヒューマンカレッジ いわき学部 第5回講座」として、
「いくさの考古学」・・・・・動乱の舞台を考古学的手法で丹念に灯影する・・・・・
講師は馬目順一先生でした。
- 皇朝十二銭始末
- 食人の風習 カニバリズム
- 鎌倉攻めの戦死人骨
- 鉄砲伝来論争と1543年(日本発見)
年代が下るにつれてだんだん小さく粗悪化されてきた。
1枚1文で使役1日分の労賃でした。
②公共事業を政府はやらなくなり、
律令制度に基づく国司が直接行かなくなり在地の者に
任せるようになった結果
→武士階級が発生してくる。
②コロラド州カウボーイ・ウオッシュ遺跡・・・人骨が解体されて出てきた。
人を切り刻んで土器に入れて煮た。(土器に付着していた。)
→アメリカインディアンの人を食べた証拠が出てきた。
②昭和34年 極楽寺遺跡調査・・・1000件の人骨が出てきた。
鎌倉時代の骨とわかり、新田義貞の鎌倉攻略(1333年)・・・元弘3年、
戦死者6000人ではないかと。
③両遺跡の人骨出土状態の相違
(埋葬の在り方がまったく違っていました。)
1.材木座の人骨には傷がありました。
1)完全な人骨はいくつあるか。
2)遺体が大体そろった遺体はいくつあるか。
3)遊離した遺体はいくつあるか。
4)バラバラの遺体はいくつあるか。
2.極楽寺の人骨について
1)完全なものは1体もなかった。
2)今昔物語に「できもの」を治すのに、
それを取るのに男性の肝(きも)を食べると治るということが
書かれています。
3)寺のトップの忍性(にんしょう)は社会事業として
ハンセン病の人を保護していました。
→ハンセン病の治療の為、人体を食べた後の証明ではないかと。
(当時、日蓮は、人の肉を食べるのは、
許されるものではないと書いていました。)
すなわち、種子島へ、ポルトガル人が鉄砲を伝えたからと。
1)で、船はどこのか?
ジャンク(中国の船)・・・竹の笹で編んで作った船でした。(倭寇船)
2)で鉄砲はどこのか?
火縄銃の型式で南アジアの鉄砲でした。
→シャムより脱走して、中国に向かって逃げていた人達が
種子島を発見したと。
鉄砲伝来は石見銀山(灰吹き法)の銀を
持ち帰ったと考えられると。
5.第7騎兵隊の戦場
①カスター将軍(リトルビックホーン)・・・1876年6月、第7騎兵隊全滅
アメリカインディアンの銃(弓矢は少ない)は
第7騎兵隊と同じ銃を持っていたと。
・・・1984年の遺跡の調査でわかりました。
②クロウ・クリーク遺跡(インディアン同士の戦い)・・・コンピューターの活用
人骨調査にコンピューターを導入。
→戦跡考古学の抬頭
結論として:
考古学とは、人間の醜いものまで、
探す過酷な学門なのだと。
このように馬目先生は講演なされ、考古学の進歩に私は驚きました。
馬目先生、貴重なお話ありがとうございました。
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