昭和初期に小名浜の歴史学者が大きな絵に描いたもののコピーです。
上記の写真を2分割にして大きくしたものです。
3月のいのしし君のブログにも載せてあります。
いわきフォーラム’90講演会に関連して・・・・
下の図と一体で見てください。
上の図と一体です。右の部分です。
関寛斎の戊辰戦争時の写真です。
関寛斎の晩年の写真です。
関寛斎は真中にいます。
戊辰戦争で使われたものです。
新川町の高木さんの倉庫です。
いわき市史第6巻「文化」P137~138の2ページをコピーしました。
松村亨先生が執筆しました。
「関寛斎」講師は、関内幸介先生でした。
戊辰戦争(1868年)で
政府軍の野戦病院院長としていわきに来た
関寛斎の生涯と思想について
話していただきました。
戊辰戦争のいわきにつきましては、上記写真のように政府軍が平潟港に上陸して、
圧倒的武器の力により平城が落城して終了するわけです。
その時政府軍の野戦病院の院長が関寛斎で、長崎で近代医術を学ぶだけでなく、
思想的にも素朴な人道主義者で、平潟に上陸するや否や
住民の間に蔓延していた腸チフスや戦傷者を
近代医術を用いて処理し、1万数千人を治療し、
合わせて地元の医師をも教育した。
- 戦傷の治療で洋医学の優越性を実証し洋医学の普及と向学心を刺激したと。
- 敵味方の区別なく治療を行い、難民の医療に尽くしたと。
→「わが国の赤十字事業の先駆である」(石原明)といわれています。
関内先生は、
寛斎のその後、(年表を参照)43歳からの徳島で開業医となり
町医者として生きた話。
その後、72歳で、北海道で牧場開設をした事を話され、
最後は、トルストイの博愛主義にも似た、農地解放のような行動で、
孫に告訴されるというようになり、
明治天皇が崩御された2ヶ月後に服毒自殺をされました。
明治天皇に殉じたのではといわれています。
このように、
気骨あふれた関寛斎の生き方は、
激しい生き方だったけれどもその時、その時、
一生懸命に生きて人の心(=ひとの誠)
を実践した人だったのではないだろうか。
そこに感動します。
なお、戊辰戦争で、政府軍で平潟に上陸した医師群の中には、
作家の吉村昭さんが描いた
「白い航跡」(講談社文庫で上下各540円)の高木兼寛
・・・(後に、慈恵医大・海軍軍医総監・
「脚気」の原因を美食によるビタミン不足と解明した。
一方森鴎外はその時、陸軍軍医総監で、
脚気細菌説を取り、後に日露戦争で犠牲を出す結果となりました。)
幕府軍の中には、
作家の吉村昭さんが描いた「暁の旅人」(講談社文庫で620円)
の松本順(佐藤良順)や高松凌雲などがいました。
記憶に残しておきたい事実です。
関内先生が上げた参考文献としまして、
- 関寛斎(1868年)「奥羽出張病院日記」全5冊・・・いわき総合図書館所蔵
- 関寛斎(1901年)「いのち乃洗濯」・・・・・・・・・・・・・自費出版
- 司馬遼太郎(1976~1979)「胡蝶の夢」・・・・・・・・・朝日新聞
- 松村亨(1977年)「近代の医術」・・・・・・・・・・・・・・いわき市史6巻「文化」
- 白里研究グループ(1982年)「寛斎日記」・・・・・陸別町教育委員会
- 戸石四郎(1982年)「関寛斎ー最後の蘭医」・・・三省堂
- 関寛斎顕彰会(1986年)「関農場の考察」・・・・・山本書店
- 松村病院史編集委員会(2003年)「病院前史第1部」・・・財団法人磐城経世回会
- 戸石四郎(2005年)「津波とたたかった人ー浜口梧陵伝」・・新日本出版社
などがあります。
関内先生、貴重な話と資料の説明ありがとうございました。
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