2008年11月2日日曜日

いわき・三和町の史跡めぐり・・・Part4

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              作B遺跡の概要が書かれています。
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         下が「作B遺跡」 の遺構と遺物の出土状態です。

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         内郷・番匠地遺跡の水田の想定復元図です。
          (共立病院の駐車場の側です。)
         ・・・H17年度ヒューマンカレッジ第1回目、
        「弥生文化の構成要素」馬目先生のレジメより
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                 「弥生時代の墓制について」
                 ・・・H19年私のいわき探訪2より、
                高島先生のレジメより
              作B遺跡は左奥から発見されました。
                 この写真の左奥です。
              稲刈りが終了した後の田圃の今です。
     弥生時代の初期にもここで米が作られていたのですね。


Part4「作B遺跡」

・・・いわき市最古の弥生文化を伝える山あいの遺跡です。
三和町上永井字作
3,500年くらい前の板石を床に敷き並べた敷石住居跡一屋が発見された。
石敷の下には、墓とされる土器=遺体が埋められていた。
場所は、阿武隈高地の山門で、小玉川の支流が流れているところです。
S58年の調査で、縄文ー江戸時代」の資料がわかりました。
①縄文後期専用前葉(綱取Ⅱ式期)で、床に石が敷かれていました。
  (この時期だけ)
  長さ50cm前後の板石が敷き並べられていました。
②縄文後期~弥生初期の多量の土器・石器」が出土(田圃の中から)
  土器は変形工字紋や波状紋を主紋様をするもので、
   頭部中央が膨らむ太口短頚に列点紋を 
   施紋したつぼや変形工字紋を半肉彫した土器が有名。

  土杭や土器棺墓も、出土され、弥生時代の最も古い集落遺跡」として有名です。
結論:
猪や鹿を捕り、ブナやドングリを採集した縄文時代から、
米を作る時代に移った最初の遺跡といわれる。
「もみ」の痕跡が見つかっています。(水田の跡は見つかってません。)
この時期は、朝鮮、山東省などから、人々が移住してきた時期と考えられ、
稲作が持ち込まれたと考えられています。
上記写真のように、内郷の番匠地遺跡では、5mくらいの小さな水田が
同時期に行われていたと考えられています。
お墓も、骨にして、もう1回出して、つぼに入れてまた埋めた再葬墓といわれます。
つぼは米を入れるため(稲の種を入れて、神様に祭りました。)
余剰物質ができなかった。→平4小の「諸荷遺跡」の土杭墓を見ますと
均質な時代と考えられます。
だだし、「諸荷遺跡」の山頂には、まわりを聖域のしるしをつけたお墓ができてきた。
(4基)…方形周講墓。
そしてこれ以降は、
大きな古墳ができる時代へとなってきました。

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